会社とは、単に労働の場ではない。 そこには、誰が発言し、誰が沈黙するかという見えないヒエラルキーがある。
制度で決まるように見えて、実際は**「人間関係」と「空気」**で動く。 そして、その空気が濃くなるほど、職場はまるで宗教のように振る舞い始める。
僕がいた会社も、まさにそうだった。 表向きはリモート主体の合理的な組織。だが内部では、 **感情と伝統と制度がせめぎ合う“支配の三角構造”**が成立していた。
その構造を見抜く鍵になったのが、マックス・ヴェーバーの「支配の三類型」だ。

ヴェーバーによれば、人が誰かに従う理由は「力」ではなく「信じている正当性」にある。 つまり、なぜその命令を受け入れるのかには 3 つの根拠がある。
この三つの支配は、会社の中ではきれいに分かれては存在しない。 それぞれが重なり合い、時に衝突しながら組織文化を形づくっている。
僕が見てきた組織では、まさにこの「混線」が露骨に現れていた。
社長は、典型的なカリスマタイプ。 社員一人ひとりの感情に入り込み、会話で組織を動かす。
「苦手な人とも話そう」 「孤立しないで、輪の中に入って」 こうした発言は一見人間的で温かいが、同時に感情の統制でもある。
それはルールではない。だが、逆らうと空気的に悪になる。 こうして、倫理的な正義がカリスマの言葉を通して現場を包み込む。
上司 A も似ていて、言葉より雰囲気で場をコントロールするタイプだ。 「楽しい職場にしよう」「みんなで盛り上げよう」というノリが支配の手段になる。 会議では議題より“温度感”が重視され、冷静な意見は“浮く”。
結果として、感情の支配が制度の上位に立つ。 感情を読めない人は「冷たい」とされ、発言の正当性を失っていく。
別の層には、上司 B による穏やかな伝統支配がある。 この上司は、制度や評価より**「空気の調和」を大切にする**。
会議前に必ず「最近どう?」から始まり、 社員旅行、飲み会、記念イベントなどが儀式として重んじられる。
そこでは「楽しそうにしていること」が善であり、 参加しない人は**“和を乱す”存在**と見なされる。
これは明確な規則ではない。 だが、感情のカリスマ支配と結びつくことで、 伝統=空気の正義となり、組織の表層を固めていく。
一方で、会社には評価制度、勤怠管理、職位などの合法的支配も存在する。 だが、それは現実では飾りに近い。
評価は「上司の好み」で決まり、 勤怠や成果より雰囲気が良いかどうかが判断基準になる。
合理的な議論を試みる人ほど、「理屈っぽい」と距離を置かれる。 こうして、合法的支配は空洞化し、感情支配と伝統支配が実権を握る。
この三つの支配が同時に働くと、組織は誰が権威を持っているのか分からなくなる。
制度は存在しているのに、実際のルールは感情で決まる。 秩序が維持されているようで、実態はカオスだ。
例:ある社員 C のケース
C は「感情支配の世界」に最も深く巻き込まれた存在だった。 優しさや献身で評価されるが、次第にその優しさが“従属”へと変化していく。 好意を示さない相手には不安を覚え、 やがて**「存在の確認」そのものが目的化**する。
感情支配の中で、カリスマ(対象)への依存が進行していく。 これは宗教的信仰に近い。
例:ある社員 D のケース
理性を重んじ、構造分析を発信するタイプ。 しかし組織の中では、それも空気を壊す発言として弾かれやすい。 彼は理性で抗いながら、次第に「観察者」へと退く。 合法的支配を志向する者が、静かな異端者になる構図。
例:ある社員 E のケース
感情でも伝統でもなく、「合理的説明」で世界を理解しようとするタイプ。 だが、その視点は冷たい、浮いていると評されやすい。 結果的に、**組織の外部(観察者)**として位置づけられ、 会社全体の「正当性の歪み」を可視化する役を担ってしまった。
ヴェーバー的に言えば、組織とは支配が信じられている共同体だ。 誰もが自分の「正当性」を信じている。
社長は「人を信じることが正義」と信じる。
ある人は「調和を守ることが善」と信じる。
また、ある人は「愛されることが価値」と信じる。
ある人は「合理性が唯一の救い」と信じる。
そしてある人は「構造を理解することが自由」と信じていた。
つまり、支配とは信仰の衝突でもある。
ヴェーバーは、近代化を「世界の脱魔術化」と呼んだ。 人が信仰や情動から距離を置き、理性で世界を捉え直す過程のことだ。
僕がこの構造を言語化しようと思ったのは、 自分が支配のど真ん中にいたからだ。 感情も、空気も、制度も信じられなくなったとき、 残ったのは「観察」と「記述」だけだった。
会社を宗教として見るのは批判ではない。 むしろ、それがどんな信仰体系で動いていたかを理解する作業だ。 それができたとき、初めて支配の外に立てる。